平城(いわき市平)

この城は完全なる近世城郭である。
関ヶ原の合戦で佐竹氏に同調して中立を貫いた岩城氏は改易され、新たに徳川譜代の鳥居忠政がこの地に支配者となった。
ここに鳥居氏が置かれたのは北の外様大名伊達氏に対する抑えの役目としてである。
忠政は大館城を廃し、東側に続く岡に慶長8年(1603)から新たに築城を開始した。これが平城である。
領地支配に不便な山城から領地支配を目的とし、役所の建物も多く置くための政庁とする必要があったのであろう。
当然、旧支配者の岩城氏の影を消し、新たな支配者の実力を岩城旧臣や領民に示す必要があったのであろう。
平城は平市街地の北に位置し、市街地からの比高は30mほどある。崖に面した南側に本丸を置き、残りの3方に曲輪を配置する梯郭式である。
天守はなく、三層櫓を天守の代用にした。当然本丸の主要部分は石垣作りであった。城下町も作られこれが現在の平市街地の原型となっている。
幕末まで、城主は鳥居氏から内藤、井上、安藤氏と替わる。
慶応4年(1868)戊辰戦争で安藤氏の平藩は、奥羽越列藩同盟に参加したため、明治政府軍に攻められる。
この時は何ら抵抗することもなく、城代は城に放火して脱走するという無様な有様であった。
太平の世を過ごした武士の果てとしては情けないものである。
そこへいくと会津藩や長岡藩の武士はまさしく「ラストサムライ」と言えるだろう。
現在、城のほとんどは住宅地であり、一部に石垣、土塁、水堀が残っているだけである。

一部焼け残った門が数箇所、明治時代に移築された現存しているという。
普通、本丸部分は公園になっていることが多いが、平城は本丸部分まで見事に住宅地である。
若干、東側と西側に石垣が残り、東側の櫛形門跡の石垣の下に堀が見られる程度である。
本丸の北側を風避けの巨大土塁が覆うが、何とその土塁の上にまで家が建っている。
この有様であるので二の丸、三の丸も当然、住宅地である。
最大の遺構は本丸、北側を覆うV字形の堀、『丹後沢』である。これはきれいに残っており、こちらが公園となっている。
この堀は自然の谷津を拡張したものというが、不思議なことに水の出口がない。行き止まりの池といった感じである。
しかし、これほど見事に破壊されている近世城郭も珍しい。まったく大切に扱われていないことがありありと伺える。
地元の出身か地元に深く根を下ろした領主の城なら大切に扱われるが、全く地縁もない領主の築いた城なら地元が愛着を抱くはずがなくこんなものなのだろうか。そんな城は全国に多く存在するはずであるが、ここは極端である。
地元の住民に恨みを買うような悪政でもしたのだろうか。

本丸西側の中御門跡の石垣。 本丸北側を覆う丹後沢の水堀。 本丸東側の櫛形門の石垣。

(写真提供:余湖浩一氏)

大館城(いわき市内郷/好間)
戦国時代の岩城地方の支配者、岩城氏の本城であり、別名「飯野平城」ともいう。
平市街の西の比高70mの山が主郭部である。
岩城氏の本城とはいうが、もともとの城主は岩城氏ではなく岩崎氏であった。
本城に本拠を移す前の岩城氏の本城は南東にある白土城であったが、それ以前は四倉の長友館を本拠にしていた。
岩城氏は桓武平氏である平隆行が藤原清衝の養子となり、その子維衝がこの地を領土に与えられ岩城氏を名乗ったものという。

平氏ではあったが、鎌倉幕府においては源頼朝からこの地の地頭職に任命されている。
南北朝期にははじめは南朝方に付くが、のち北朝に付き、次第に勢力を拡大し、この地の最大勢力、伊賀氏を圧倒、岩城隆泰のころには岩城の守護を務めるまでになる。
岩崎氏を滅ぼして本城に本拠を移したのは、文明15年(1483)常隆の代である。
彼の前代、親隆の時代から岩城氏の興隆時代となり、岩崎氏を滅ぼし、楢葉地方も制圧。
また、当時、隣国常陸では佐竹氏が山入の乱で勢力を減退させており、この機を捉え、常陸北部も制圧、さらには盛隆の時代、永正7年(1510)には白河郡の白川氏も従属させる。
この頃の勢力範囲は岩城地方を中心とした陸奥南部、下野東部、常陸北部という広大なものとなった。
しかし、最盛期は長くは続かず、永正11年(1514)盛隆、政隆父子が何を思ったか下野国制圧に兵を向け、惨敗。これをきっかけに一気に落ち目になる。
重隆、親隆、常隆と代を重ねるが勢力はジリ貧となり、隣国で勢力を拡大する佐竹氏の勢力に飲み込まれ、結局は佐竹氏から養子貞隆を迎え、与力大名にまで転落してしまう。体のいいお家乗っ取りである。お家乗っ取りは北条氏のお家芸であるが、佐竹氏も葦名氏を乗っ取り、次いで岩城氏も乗っ取り、抜かりなくやっている。
最後の石高は12万石というから最盛期の4分の1程度であろうか。
最後は関が原の戦いで佐竹氏と行動をともにしたため改易されてしまう。
一族は佐竹氏や伊達氏の家臣となって存続するが、戦国大名としての命運はここで尽きる。
しかし、大坂の陣で功を挙げ大名に復帰し、信濃国川中島で一万石を領する。
さらに貞隆の子吉隆は出羽国由利郡で二万石を領し、近世大名として明治維新まで存続した。
この地は岩城氏改易後、鳥居忠政に与えられ、忠政は新たにこの城の北東の岡続きの物見岡に平城を築き、本拠に移した。
これにより大館城は廃城となった。
大館城は平市街地の西、平城のある岡の西の続き、磐越東線が通る切通しの谷の両側の岡にまたがっている。
このうち西側の山に本城部がある。この山は東西500mほどの長さを持つほぼ独立した山である。
標高は80m、比高は70mである。南を新川が流れ、北を好間川が流れ、この2つの川を水堀としている。

戦国大名の本拠だけありさすがに大きいが、形式は古い。
山を段々状に削り、急勾配の切岸を堀代わりにしているタイプの城である。
大規模な土塁や堀は見られない。
山上が本郭であるが、結構広い。
この本郭の巨大さと全体的な印象は白川城に似ている。
本郭の内部は二段構造になっており、東西120m、南北40m程度の広さである。
南側は急勾配で狭い帯曲輪(犬走り?)があるだけであり、西側にも曲輪が1つ確認できるだけである。
(その先は藪であるが、その中にまだ遺構はあるかもしれない。)
山上にある本郭は広いが、風が強く居館を置くには不適当である。
緊急時の指揮所、避難場所であるとともに最後の防衛拠点であるが、平常時は武器庫や食料庫、金蔵等、重要物資の保管場所ではなかったかと思う。
居館を置くなら東側の山麓の平坦地が想定できる。本郭の入口は東側であったようであり、枡形の名残と思われる土塁がある。
ここを下りると本郭の北側から東にかけて巡る帯曲輪に出る。本郭からは7〜10mほど下である。
その東には稲荷神社のある曲輪となる。さらに神社の参道が東下に延びているが、これが大手登城路であったのであろう。
さらに東下に曲輪が展開し、居館があったと思われる場所に出る。
一方、北側に下りる道があり、その途中に4段ほどの曲輪が確認でき、帯曲輪が北側を巡っていたようである。この部分は当時のまま、手付かずの状態で残っているようである。
磐越東線が走る切通しの東側の岡が出城であったといい、現在は寺と墓地である。ここには家臣団の屋敷があったのだろう。

東側、新川にかかる橋から見た城址。 本郭に建つ忠魂碑。何故か城址碑はない。 本郭東下の曲輪に建つ稲荷神社。

(写真提供:余湖浩一氏)

白土城(いわき市平南白土)

大館城に本拠を移す前の岩城氏の本城である。
いわき駅から東南東2qの標高95mの山にあり、すぐ北で夏井川と新川が合流する。
大館城からは3qの距離に過ぎない。
城のある山は南側以外は勾配がきつい。
新川にかかる高橋橋の東、古宿地区から増福寺に向かう車道があるのでこれを行けば城に行けるが、この道がとんでもない道である。
急勾配で狭く、正面から車が来たらアウトである。
しかし、切通し(これは堀切である。)を過ぎると、山間の小盆地に出る。増福寺の駐車場に車を置き、城に向かうが、ここもすでに城域である。
主郭部はこのすぐ北側である。
切通しから山に入る道があるが、直ぐに曲輪があり、主郭部の切岸が絶壁のように目の前に迫る。
腰曲輪からの高さは優に15mはある。
しかも急勾配である。
主郭部に登る道を行くと主郭部の曲輪に出る。内部は藪である。
西側に土塁が延びており、その先端が櫓台になっている。
ここから下を見ると足がすくむほどである。
櫓台からは北東に土塁が延び、その先に周囲に土塁を持つ径15mほどの曲輪があり、北側と東側に腰曲輪がある。
ここから北に延びる尾根を行くと稲荷神社のある曲輪に行けるが藪で行けない。
この主郭部は平市街の平地を吹きぬける風が山に当たって強まるため、風がすさまじい。

訪れた日は平地でも強風であったが、この山の上は土塁上をまともに歩けないほどであった。
この土塁は防御用ではなく、風除け以外のなにものでもない。
主郭部はそれほど狭い訳ではなく、まだ東方向の尾根に遺構があるようである。
しかし、藪がひどく行く事はできない。
切通しに下りると、西側にも城の有りそうな山があるので登ってみる。
山頂は標高90mくらいであるが、そこは何と増福寺の墓地である。
途中が段々になっているので曲輪であろう。
一方、切通しを南に降りていくと段々がある。これも曲輪である。
増福寺もその曲輪の1つに建つ。
一番下(盆地の底)では発掘が行われていた。館跡などが発掘されているらしい。
この盆地が居館の地であったようである。
この地は北に城のある山があり、これが風を防ぐため無風である。しかも、南向き極めて快適な空間である。
戦国時代は要害の地である。ここはとても攻めにくい。周囲が敵ばかりの戦国武将が本拠を置くには理想的である。
今は民家が数軒しかない場所であるが、岩城氏がいたころは、この小盆地の斜面全域に建物が立ち並んでいたのであろうか?
この居館の部分は白土城とは分けて下ノ内館ともいうそうである。

戦国前期、岩城氏の勢力が拡大し、18代隆忠は四倉の長友館からこの白土城に本拠を移したという。
築城がこの時かそれ以前から存在していたのかは不明である。

ここを本拠に隆忠は嫡子親隆と共に分家で本家に匹敵する勢力を持っていた島倉山館の岩崎氏を攻め滅ぼし、北進して楢葉も制圧する。
常隆の代の文明15年(1483)に大館城に本拠を移し、この城は家臣白土氏の城となった。
関が原後の岩城氏改易により廃城となった。

南下の居館跡から見た城址。 堀切は切通しになっている。この道を下りる
と平市街である。
本郭西端の櫓台。この裏側は絶壁。
本郭南下の帯曲輪。右が本郭の切岸。高さ
は15m以上はある。
切通しから見上げた出城。上は墓地になっ
ている。
北側の神社の鳥居。上に物見の曲輪があ
り、神社がある。

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